パソコンは、「思索」の道具となり得るか?
一通過性のブログ、そして、パソコンは
果たして、「思索」の道具となりえるのだろうか?
最近、そんな事を、考え出した。
昔は、”記述する”、或いは、”記憶する”媒体としては、
紙と、筆記用具しかなかったので、(テ-プと、いう方法もあったが・・・)
それに、頼るしかなかったのだが・・・
現在では、このように、パソコンという
「一見?」便利な道具が出てきた。
しかし、
記述したものを、再度、見直す事を
今は、殆ど、やってない。
「昔は、こんな事を思って、いたんだなあ~」なんて振り返るのは
やはり、”紙媒体”なのだ。
そうなると、やっぱり、パソコンは、
商売用、デ-タベ-ス、シュミレ-ション、
同じ文章を、多くの人間に、短時間で、伝達する道具。
懸賞の葉書を書く変わりの安価で、しかも、短時間で相手に届く道具
などでしか、
利用方法が無いという事か?
手紙は、一対一。
電話も、一対一。
日記は、あくまでも、個人の記録。
そうなると、老い行く先は、
世間に、自分の考え、思考を、思索を、語る事も無く、
口を、つぐんだまま、生を、終えろというのか?
それは、やっぱり、我慢の出来ない事で
喜怒哀楽、思想、思考は、どんどん、こういう機械で、
語っていくべきだ・・・と思う。
発表してゆくべきだ・・・・と思う。
それが、パソコンでの、(道具としての)”思索”であり
”記憶””記録”では、なかろうか?
ただ、どうしても、ブログを打つにしても、
どうせ、時間をかけるのだったら、アフィリで、お小遣い稼ぎが出来た方がいい・・という事で
アフィリが、可能なブログにしか、打ち込みを、していないのだけれどね。
パソコン打ちも、生きている時間の対価交換だもんね。
無駄には、出来ないよね。
でも、どうしても、パソコンの打ち込みは
「軽い思索」そして「軽い記録と記憶」に、なってしまうね。
仕方がない・・・と言ってしまえば、それまでなんだけど
それで、良いのか?って処もあるよね。
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